福岡高等裁判所宮崎支部 昭和51年(う)35号 判決 1979年3月16日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役一五年に処する。
原審の未決勾留日数のうち一、五〇〇日を右の刑に算入する。
原審および当審における訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
控訴の趣意は、検察官荒井三夫名義の控訴趣意書(但し、同書三丁裏五行目「立会巡部長」とあるのを「立会巡査部長」と、同七丁表一一行目「昭和四八年」とあるのを「昭和三八年」と、同一八丁表一行目「稜緑」とあるのを「稜線」と、同六七丁裏七行目「皮篭名商店」とあるのを、「皮篭石商店」と、同八五丁裏一二行目「基づかなざる」とあるのを、「基づかざる」と、同一〇一丁表八行目「トレチコート」とあるのを「トレンチコート」と、同一〇三丁裏七行目「下荒田公番」とあるのを「下荒田交番」と各訂正の上述べた)、検察官伊津野政弘名義の弁論要旨と題する書面のとおりであり、これに対する答弁は、弁護人保澤末良の弁論要旨と題する書面のとおりである。
控訴の趣旨は、要するに、原判決は被告人による松本みと子の殺害および同女所有の現金約二万円ならびに伊波孝所有のボストンバッグ一個の強取の訴因について犯罪の証明がないとして無罪の言渡をしているが、右は証拠の取捨・選択ないしは価値評価を誤り、事実を誤認したものであって、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるというにあり、これに対する答弁は、原判決は相当であり、控訴は理由がないというにある。そこで、つぎのとおり判断する。
第一はじめに
《証拠省略》によれば、昭和四〇年五月二九日午前一一時過ぎ頃、鹿児島市上荒田町二、〇五七番地の五通称松本アパート一階一号室の松本みと子(同アパート経営者、当時六五歳)方が同月二七日の朝からドアーに鍵が差し込まれたままで、普段聞えてくる炊事の音も聞えず、同女の姿も見えないことなどから不審を抱いた隣室の井戸田重夫夫婦らが同女方居室に立入ったところ、同室内炊事場に同女の死体を発見し、これを警察へ急報した、そして警察官が現場に急行し直ちに実況見分を実施したところ、同女は炊事場板の間に敷かれたカーペットの上にうつ伏せに倒れて死んでおり、その死体の上には下から順に毛布二枚、夏ふとん二枚、敷ふとん一枚が嵩高にかぶせてあり、死体は上半身に飛散血を浴び、特に頭部には血液の付着が著しく、顔面や胸部も血に染っていたこと、死体の頭部付近にあたる床上に一部はすでに凝血した著しい流血があったほか、そばにあった塵バケツ、油罐、ダンボール製みかん箱にも飛沫状あるいは流下状の血液が多量に付着し凝血していたこと、死体には前額部に三個、左頭頂部に二個、後頭部に二個、鼻根部にV字型の一個の各挫裂創、左頸部に二個の刺(切)創がみられ、同女の死因は頭部、顔面、左頸部等に強烈な打撃が加えられた結果、頭蓋骨々折、頭蓋底骨々折ならびに脳挫傷を招来したことによるものと判定されること、死後解剖着手時(同月二九日午後四時一〇分)までの経過日数は約二、三日内外と推測されたこと、同アパートの居住者やプロパンガス検量員らが同月二六日午後二時すぎ頃同室に居た同女を目撃しているが、同アパートの二階二号室に住む福山良子がその後しばらくして同女方で罐切りを借りようと外から声をかけたときには返事がなく、さらに同日午後五時すぎ頃同アパートの手すり工事に赴いた五反保らが同女方のドアーに鍵が差し込んだままになっている状態を目撃しているなどの事実が認められ、これらの状況に照らすと、公訴事実記載の日時、場所において、何者かが兇器を用いて同女を殺害したことが明らかである。
そして、検察官は、本件は公訴事実の如き態様をもってされた被告人の単独犯行による強盗殺人であると主張し、被告人はこれを全面的に否定するのである。そこで以下順次検討する。
第二被告人の供述について
一 被告人の捜査官に対する供述の任意性と信用性
(一) 供述の任意性、信用性判断の基準
本件松本みと子に対する強盗殺人の事案は重大であって、やっていないことを軽々に自供するなどということは通常考えられない。取調にあたって、理屈上もしくは他の資料との関係上、あいまいさやうそと思われることを確めたり、反問したり、説得したりすることは、任意性を疑わせる方法によるのでない限り、真実を探究するためにはむしろ好ましいことである。
また、事案が重大であればそれだけになるべく刑責を免れもしくは軽減させたいと思うのが通常であるから、供述が移り変わりのあるような形を呈するのは自然なことで、そうだからといって別段異とするにあたらない。供述の信用性を考えるについては、その基本的部分に関心をもつことが大事である。本件記録の随所にみられる後述の被告人の意識的な事の真実と架空の作り事を混ぜてする供述傾向を考慮しても、その供述のうち客観的に明らかにされた事実と一致する供述は真実を述べており、反対に右事実に反する供述は虚偽であるとの判断が可能であるし、被告人の自供によって初めて意味づけのできた事実も、それが納得せしめるものであれば、信用できる供述といってよい。供述傾向にこだわり、供述の細部に相違があり、矛盾があり、疑問があり、不自然さがあり、あいまいさがあるからといって、ただちに基本的部分の供述をも排除することは問題である。
(二) 被告人に対する取調の概況とその供述の経過
《証拠省略》を総合すると、つぎの事実が認められ(る。)《証拠判断省略》
1 参考人段階における供述
被告人は、別件窃盗被疑事件で鹿児島警察署(当時)に勾留中の昭和四〇年一一月ころ、同じく同署において窃盗被疑者として勾留、取調中の阿部和雄が、本件松本みと子殺害事件で数回取調べられたと聞くや、同人に対し、「上荒田のアパートでおばさん殺しがあった日は、雨が降っていたでしょう、その日、傘もささんで与次郎が浜をボストンバッグを下げて歩いていた男がいた、その男のシャツに血みたいなものが付いていたのでおかしいと思って写真を撮っておいた、君が犯人でないことははっきりしている」などといい、捜査官にその旨申し出ることも承知したので、同人が直ちにその旨を担当刑事であった松元末太郎に申し出たことから、同月六日ころ、被告人は右松元刑事から本件についての最初の事情聴取を受けるところとなった。その際、被告人は右松元に対し、「本件の五月二六日は、近所の左官職の駒走某の仕事の加勢に上荒田に仕事に行ったが、その休憩時にボストンバッグを持ちポケットに金をたくさん入れクレープシャツを着て雨に濡れて通る男を見たので、その男をカメラにおさめていた、それで今でもその男がアパート殺しの犯人ではないかと思うが、それは別に松本アパートに関係があるかどうかはわからない、そのカメラにおさめたネガは、今でも家にあるかもしれないが、台風でなくなっているかも知れない」旨供述し、同刑事に右供述の不審点をききなおされると「五月二六日、妻とアパートを探しに行って、午前一〇時三〇分ころ不動産屋の生駒某の案内で同不動産屋の並びの路地を入ったアパートへ行った、路地の中ほどで若い男と会い、五〇才過ぎで肥えたアパートの管理人の婦人にアパート階下一番奥の部屋を見せてもらい、明日金を持って来るといって同所を辞した、路地で会った若い男は、年令二七、八才ぐらい、丈一六四センチくらい、中肉、面長、逆三角の顔型、色白、頭髪刈上げ、グレー背広に紺か黒のズボン、履物不明、一見土工風で、一四、五年前、与次郎ヶ浜一帯を廻っていた移動散髪屋にいた男で、最近はホンダパチンコ店で玉拾いをしているのを見かけたことがある、五月二七日午後三時半ころ、一人で前日のアパートを見ようと路地に入ろうとしたとき、この男がアパートの方から出てきたのとまた会った、アパートの管理人室へ行きノックしたが応答がなかったので引き返し帰宅した、男とは二回会ったがそのうち一回は、雨がしとしと降っているのに傘もささず濡れて、ボストンバッグを下げていた、そのボストンバッグは野球選手が持つような長い物で真中が開くようにチャックがついていたが、中の方が少し開いて、新聞紙で何か巻いたようなものが入っているのが見えた」などと供述した。
2 第一次取調段階における供述
被告人は、昭和三九年九月、大阪市において窃盗、詐欺事件を犯し、同年一一月懲役一年、保護観察付執行猶予三年の判決を受けて鹿児島市に戻っていたのであるが、さらに、昭和四〇年一一月二日、前示窃盗被疑事件で逮捕され、その勾留中に前示松元末太郎の事情聴取となったところ、同年一二月二五日、鹿児島地方裁判所において前示窃盗および詐欺の罪で懲役二年の実刑に処せられ、昭和四一年一月九日より鹿児島刑務所で服役することとなり、前刑の執行猶予を取り消され、併せて服役することとなった。その間、同年二月七日に至り鹿児島警察署に移監され、本件殺人事件の被疑者として本格的取調を受けることとなり、事件の解明がつかないまゝ捜査が縮少されるに至った同年五月ころまで続けられた(第一次捜査)。
被告人は、当初、本件犯行を否定していたが、被告人の取調を専任していた捜査員新川豊に対し、同月八日、パチンコ店で知り合った橘某に誘われ、同人とその友人のこうちゃんと名乗る男の三名で本件松本みと子方へ強盗に入り、同女を殺害したと自供するに至り、右三名の当時の服装、履物(特に、橘はチャック付雨靴、被告人は妻所有のゴムの雨靴と述べる)、犯行時状況の詳細(被告人は、アパート管理人と面識があるので戸外で待機し、橘とこうちゃんが管理人室に入った、両名の指示に従い同室に入ると炊事場に布団が出されてあり、橘がさらに毛布を投げ置いた、こうちゃんの指示で金品を探し、みずや(食器戸棚)の中の抽斗から「通帳」と書いたノート様の間の五千円札一枚、千円札五、六枚と小さなビーズ様のチャック付財布を見つけ、同人に渡した、室外に出るときこうちゃんがドアの把手を拭き、鍵をかけた、同人が大型の大きな縞の碁盤模様のボストンバッグに何かを入れて提げているのに気づいた、三名で城山の旧登山口付近へ行き、ボストンバッグを開け、金を分配した、バッグには血のついたセーターと先の少し曲った自動車のタイヤをはずすのに使う長さ四〇センチメートルくらいの平たい金の棒と橘が持っていた短刀の鞘と金が入っていた、こうちゃんは殺してしまったという意味のことをいい、橘は仕方なかったといって被告人に口止めした、こうちゃんは鍵を差し込んだまま来てしまったともいっていた、両名とは照国神社境内の銅像前で別れた旨述べたうえ、橘らが管理人室へ入ったさい、どしんと音がしたことやアパート階上室の女の人が管理人室前で声をかけたこと、アパート南側の家の化粧する女の人が見えたことなどを述べている)、その後の洋服店セールスマンとの交渉や友花荘への転居の模様、自供の動機と心境などを述べ、さらに付加して犯行時の状況について被告人が管理人室へ入ったさい、同室炊事場のガスコンロに鍋がかけてあり煮立つ音がしていたのをこうちゃんが火を止めたような記憶がある旨述べたのに始まり、翌九日には、本件被害者松本みと子方は、事前に部屋借りの件で訪問したことがあって面識のあったことを述べたうえ、前示両名とで押し入った現場であるとして松本方見取図二枚と分配を受けた五万円の使途一覧表を作って提出した。続いて翌一〇日には、かなりの時間泣いた後に膝を正してしゃくり上げながら述べだし、本件は被告人の単独犯行であるが勇気がなくて前二日は共犯者がいるとうそをいったこと、住宅を焼失し、寄食中の妻の母と折り合いが悪く、アパートへの移転費用や生活費に窮しその資金欲しさに同女方での空巣を決意したものという本件犯行の動機および同女方居室のドアをノックしたところ、意外にも同女が「どなた」といいながら応待に出たので、先日見せて貰った奥の部屋は空いているかと話しかけると、同女は、同室にはすでに新婚者が入居した、被告人はカワサキで働いていると嘘をいったが、うそをいうような人は大嫌いだ、あなたに貸す部屋はないといって、被告人が以前うそをいって入居申込に来たことを悪しざまにいい、背を向けて引き返そうとしたので、被告人が同女方だけがアパートじゃないとやり返したところ、同女がくどい人だとののしったことから、頭がカーッとなり犯行に及んだ旨の直接的な犯行の動機、そして、板の間に上りざま、板の間を通り奥四畳半の間に行こうとした右みと子の後頭部の耳寄りを足許に立てかけてあった柄の長さ五〇センチくらいで先端に巾七センチくらいの平たい先が薄くなった鉄がついた道具、墓石のこけを落すような道具(第一兇器)で強打し、同女をその場に昏倒させた、そして、すぐ室内からドアを引いて閉め鍵をかけたが、二階から降りる人の気配がしたので、雨靴のまま座敷に上り身を隠し奥の間のタンス上のラジオのスイッチを入れた、二階から来た人は外から同女に声をかけていたがすぐ引き返した、物音を消すために鍋に水を入れコンロにかけて点火した、ところが、同女はプロパンボンベに片手をかけて起きあがろうとしながら「うらむ」というようなことをいったので、もうどうにでもなれ殺してしまえという気になって第一兇器で同女の頭部を滅多打ちにしたうえ、さらに同女方炊事場にあったステンレス製の巾の広い、柄の長さ五、六センチくらい刃先一〇センチくらいの包丁(第二兇器)でうつ伏せに倒れている同女の左脇から左手で肩か首の附近を一回突き刺した、それから押入れから毛布や布団を引っ張り出して同女の上にかぶせた、タンスや押入れを見て着物を引き出し、座敷で一枚づつ振って金を探したがないので、着物をそのままにしみずやの中央抽斗の「通帳」からはさんであった千円札五枚くらいと五千円札一枚、同抽斗にあったグリン色チャック付硝子玉入り財布に入っていた硬貨やオリンピック記念硬貨、入口用飾り付き鍵を盗った、そして、引き出した着物をまとめて便槽に投げ込み、便所出口横の洋タンス上にボストンバッグを見つけ、これに血のついたトレンチコート、兇器の包丁と柄のついた道具を入れ、指紋が付かぬように着ていたセーターのすそを引き出して把手を廻し、外から盗んだ鍵で鍵をかけようとしたが錠がなかなか落ちず、鍵も抜けなかったので鍵を差し込んだまゝ逃げた、鴨池海岸のボートハウスの丸い水槽付近でトレンチコートとシャツを出し、ボストンバッグは口を閉めて海に投げ捨てた旨、犯行状況を詳細、かつ、具体的に供述し、述べたことはほんとうのことで、被害者には申し訳ないことをした、言葉でいい表わせない気持であるとまで述べている。そして、その旨の供述調書作成後にいたり、犯行時に着用のカッターシャツ、トレンチコート、セーターを自分で洗い、さらにトレンチコートはクリーニングに偽名で出してあることを述べた。
そして、翌一一日には、前日の自供時の緊張感がほぐれた、やや朗らかな態度で供述し、前回二月八日、九日に共犯者がいるといい、また犯行時の状況についていい落しのあったことの理由や前日一〇日の供述でいい残した点についてより詳細に補充して述べ、第一兇器については、その名称がわからないからと図面一枚を作図したうえ、現場入口ドアの錠に差し込まれてあった鍵とみずや抽斗内の通帳を示されて確認を求められたのにも、それらの物品が供述した品にまちがいないと答え、さらに、現場から逃げ帰る途中で、犯行時に履いていた新村三熊所有の雨靴と取り替えて返すために納屋通までハイヤーで行き、雨靴(ゴム半長靴)を買って履き替え、新村所有の雨靴は与次郎ヶ浜の川下の暗渠に捨て、新村には買い替えの品を返したことを述べた。
右の供述をその段階で一応取りまとめ、供述調書の作成を終えたところ、被告人は、その時になって新川豊に対し、被害者の首を刺した包丁(第二兇器)は、鴨池の補助グランドのそばの便所に捨てたと供述し、同人から「うそだろう、ほんとうのことか」と聞き返されると「実はほんとうなんだ、間違いないんだ」と強調して同人が自己の控え帳にその旨をメモ書きして署名を求めるや、その後尾に署名した(右の本件包丁の捨て場所についての自供は、二月一五日付供述調書を作成する時点で初めてなされたと主張する点についての判断は後記のとおりである)。
かくして、翌二月一二日、鴨池補助グランドの国道沿い公衆便所の捜索がなされ、その実施中さらに、被告人は、犯行時に携行した洋傘も同グランド北側テニスコート側の煙草屋の道路沿いの便所へ捨てたと自供したので、右包丁の捜索の立会に引き続いて、洋傘投棄の場所も指示したうえ、同月一五日には、右両投棄場所の実況見分に立ち会った(立会の理由、日時の点はともかく、立会の点は被告人も争わない)。
そして、右の一五日、被告人は、被害者を知った経緯、犯行の動機、第一兇器を携行した方法や兇行の手段・方法、兇器および盗品の処分、状況を詳細に述べ(但し、前回までの、空巣の居直り強盗であると述べた犯意の点が当初から被害者が居合せた場合は殺害してでも金を盗る決意であったことに、第一兇器は「シノ」すなわち、直径二センチメートルくらい、長さ三、四〇センチメートルの片端を尖らした鉄製の棒状のもので、鉄骨組立の足場作りの針金などをくくるときに使用する道具で、これを新聞紙に巻き母ハルエから借りた柄に木製の犬の頭の彫刻のある折りたたみ洋傘に入れて携行し、傘ごと右シノで被害者を殴打したことに、右シノと犯行現場から盗み出したボストンバッグは鹿大水産学部裏庭の便所左側便槽に投棄したことに変った)、雨靴の買い替え、強取した現金の種類・金額とその使途、兇器や盗品を場所を違えて処分したことやトレンチコートをクリーニングに出したことの理由等についてそれまで述べて来たところを重ねてあるいは補充して具体的かつ詳細に述べた。
ついで、同月二六日、被告人は、当初は空巣を働くつもりであったのが強盗の意思を生じ、本件直前の五月二〇日ないし二三日ころ、松本アパートを下見したとまで供述したうえ、本件の動機、友花荘を出て右松本アパートに至る行動、被害者との応待と殺害の方法、強取の金品の種類や額、逃走の経路と兇器等の処分、金銭の費消状況等その全貌を全面的かつ詳細な自供をなすに至った(内容は、第一兇器の種類、ボストンバッグの投棄場所の点を除き、ほぼ前回供述と同じ)。しかし、これの裏付捜査が進展しない(特に第一兇器の特定とこれと被害者の創傷との関係の解明、盗品であるボストンバッグの所在など)間に、被告人はそれまでの供述を変えるに至り、再度、三名共犯を主張したり、友人赤松信美(前示昭和四〇年一二月二五日判決鹿児島地方裁判所昭和四〇年(わ)第二九四号、第三二〇号事件の窃盗事犯の共犯者)との共同犯行であるといったり、被告人の単独犯行といったりして供述は二転、三転し、取調担当者もそれまでの新川豊から瀬戸口静治を経て浜ノ上仁之助に交代した。
しかるところ被告人は、同年五月一九日、右浜ノ上に対し、金に窮して空巣盗を決意し、本件前日の五月二五日、右犯行に備えて大学通りの鹿児島大学体育館に向って理髪店と酒屋のある付近の新築工事現場において、普通のとは違い柄をつけたところが上の方になっており、柄に黒のテープを巻いた金槌一丁を盗み、松本アパート近くまで行ったが敢行できないまま、金槌を中荒田公園の公衆便所に捨ててきたこと、翌本件当日の午前中に他のアパートを空巣の目的で下見したことを自供し、橋本ハルエ方を出て被害者方へ行くまでの行動、この間、空巣の見張り役の意図で河野明朗を誘い、現場近くまで同行したが、結局犯行は単独で敢行したことなどの犯行直前の行動と状況について詳述した。
結局、この段階で被告人は、おおむね、「友花荘に引越した当時金に困っていた、そこで被害者に部屋を借りに来たように装って話した後、現場に携行した柄の先に鉄のついた道具(第一兇器)で被害者の後頭部を強打し、顔を見られているから殺害を決意して滅多打ちし、現場炊事場にあった包丁(第二兇器)を用いて殺害した、屋内を物色して現金を盗み、それで敷金等を支払った、兇器と盗んだボストンバッグは捨ててしまった。」と自供したといえる。
3 第二次取調段階における供述
被告人が前示自白をしていたものの、前示証拠の解明がつかない状況のため日時が経過し、検察官への事件送致もされない間に、昭和四三年一〇月一七日、被告人は鹿児島刑務所を仮出獄して社会に復帰し、翌四四年六月ころまでは鹿児島市で稼働したものの、そのころ、窃盗、詐欺事件を犯して大阪方面に逃走したため、同被疑事件で昭和四四年一二月逮捕、勾留されるまで、本件に関して被告人に対する捜査は中断されていたが、この機会に、同月二三日ころから再び取調が再開された(第二次捜査)。やがて、被告人は、前示窃盗、詐欺事件で起訴されるに至り、同被告事件で勾留中を重ねて本件で逮捕、勾留(昭和四五年一月三〇日、同年二月一八日まで延長)され、本件についての取調は、勾留期間満了後も続行され、捜査担当者は、検察側が内宮光一検事、警察側が段原道雄警部であった。
この段階で被告人は、昭和四五年一月三〇日、右段原道雄の同日二回目の取調(一回目は同日午後五時ころまでで、夕食後の午後七時ころから始められ同一二時ころ終了)が始められるや、みずから本件の全てを自供するからといって取調時間の延長を申し出、緊張した態度でその場に臨み、すでに面接していた内宮検察官にもこのことを伝えて欲しいと述べて、涙を浮べて自供し始めた。段原警部は内宮検事に右の状況を連絡し、同検事の指示に従い、被告人の述べるままを録取したのである。ここにおいて被告人は、友花荘に引っ越したいきさつ、当時金に困っていた状態、松本荘に至る行動、犯行直前の行動と状況、兇行の手段、方法(空巣のつもりで行ったら被害者が出て来て、取りつくろいの応答をするうちに被害者の軽蔑の言葉を聞いてカッとなり、その場にあった手斧を取って土足のまゝ板の間に上り、同女の後頭部を「どうにでもなれ」と思って手斧の頭の方で強打した、同女はどすんと音をたてて倒れたが、起き上りそうなので「殺してしまえ」と思って手斧で数回殴った、それから、ステンレス製包丁で首を刺した)、兇行後の行動(室内を物色して抽斗の通帳にはさんだ一万円札や財布や小銭を見つけたが盗らずに紙幣は練炭火鉢の火で燃やした、洋服タンスの上のボストンバッグを盗り、兇器や血のついたトレンチコートを入れて室外に出た)、兇器など犯行に使用した物品の処置等本件犯行の全般に亘り供述し、右行動について図面八枚(兇器とその投棄場所等)を作成し提出した。
ついで、被告人は、その後連日、本件関連事実のいきさつを述べ、同年二月七日には犯行後の逃走経路と兇器、盗品の処分状況(図面二枚作成)を、同月九日には兇器の「手斧」の形状を、同月一三日には本件被害者方の空巣の目的で河野明朗を誘い込もうとして断念した経過と強取した現金額とその使途、兇器の包丁とトレンチコートの処分、兇行の具体的状況(この時、兇器は見せてもらえば判ると述べて、司法警察員中野秀雄が鴨池補助グランド脇の公衆便所から押収、領置した包丁一丁を示されて、自分が捨てた兇器の包丁にまちがいない旨、また被害現場から領置されたビニール製グリーン財布、ビーズ製紫色がま口、山元名義の通帳一冊を示されて、これらの品にそれぞれ見覚えある旨を確認し述べた)をそれぞれ述べている。
そして、翌一四日、内宮検事に対し、本件犯行を全面的、かつ、具体的に自供し(空巣を働く意思で赴いたところ、偶発的に強盗殺人を犯すに至ったとする犯意発生の時期の点はともかく、犯行の手段・方法、犯行の直前、直後の状況等に関しては金品の強取を認める点をふくめて第一次捜査時の供述とほぼ同一の供述をした)、加えて、これまで本当のことが言えずうそを述べてきたのは、本件は罪が重い事件であり、妻子のことを考えると自供できず、特に金を盗った事を最後まで隠していたのは、人を殺した上に金まで盗ったとなると妻や母が世間に対し肩身の狭い思いをするだろうと思ったからとそれまでの供述態度を省みた供述までし、兇器の「手斧」の図面一枚を作成している。
そして、同月一八日、同検察官の取調において、雨靴は一旦新村三熊に返したが、警察員が「瓦ゆき」の写真を持って捜査に廻っていることを知り、犯行の数日後ナヤ通りで買い替え、古い雨靴は安田モータースの裏のチリ捨て場に捨てた、包丁の方は自分の話した場所から発見されたが、雨靴は発見されず捜査側が疑っているようなので、その後適当な場所を捨て場所と話したと述べたものの、被害現場から金を盗ったことは再び否定したが、同月二四日、犯行時の状況については、再度、具体的に説明し、その状況が前回述べた通りであると確認し、自供した。
この段階での被告人の自供の大綱は、第一兇器が「手斧」であり、雨靴買い替えは犯行当日ではなく、古い雨靴の処分場所は安田モータース裏付近であって、被害現場で金は盗っていないというほかは、全て第一次捜査段階での自供と同一といえる。
4 第三次取調段階における供述
右のような第一次、第二次各取調段階における被告人の自白があったにもかかわらず同検察官は処分留保のまま被告人の身柄拘束を解き、捜査は続行していたところ(その最大の理由は、被害者の後頭部の頭蓋骨骨折を伴う創傷の形状と第一兇器との関係の解明が未了であったことにあり、当時、捜査側は、被害者の解剖鑑定に当った鹿大法医学教室教授城哲男の「頭部の頭蓋骨陥没骨折巣二個は同時に形成されたものであるから、瓦切りハンマーはその成傷器たり得ない」との非公式の見解があったこともあって、右陥没骨折巣を形成し得る二つの凸部を持った兇器と極めて限定された形状のものを第一兇器と想定していたため、第一次取調段階では後出の中荒田公園公衆便所より発見領置された本件瓦切りハンマーを看過することになり、第二次取調段階に至り右城哲男見解の検討の必要性が見直されて、改めて九大法医学教室教授牧角三郎に成傷器の鑑定を依頼中であり、またボストンバッグも未だ発見できない状態にあった)、同年三月一二日に至り、被告人は前示内宮検察官に宛て、それまでの自白はすべて警察側の強制にもとづくものであって虚偽である旨の上申書を提出して自白に係る事実を否定し、係属中の前示窃盗、詐欺被告事件(鹿児島地方裁判所昭和四四年わ第五〇五号)で同年四月三日懲役一年四月の刑に処せられ、同月一八日、再度鹿児島刑務所で服役するところとなった。その間に、本件担当の検察官が交代し、同年六月末から服役中の被告人に対し鹿児島刑務所における任意捜査の形で検察官藤井俊雄の取調が再開された(第三次捜査)。同検察官は供述の任意性の点を考慮して警察側の取調を禁じ、直接、専任でこれに当った。被告人は、同検察官の最初の取調において、本件犯行を全面的に否認し、本件の犯人は、甲斐勝博(マサヒロ)とタッチャンこと桜井竜美である。自分は両名から本件犯行を聞き知ったと弁解し、それまで主張のなかった全く新しい事柄、すなわち、両名と知り合った経緯、同人らを知る者として、女性や暴力団関係の人物(甲斐の妻は安田千津子と名乗る鹿児島県東郷町出身者といいながら同女は日吉町草原出身ともいう、また甲斐はやくざに関係しているともいう)、その友人、同僚(その中に「後藤實」の名が挙げられた)など一〇数名の者を挙げ、それらの人々の住所を図説したり、同検事をその場所に案内したりして、右両名が実在の人物であることを強調し、転居費用等は母ハルエからの一万円と松山保護観察官からの千円を各借用したものと創価学界で知り合った辰野二三昭(被告人は「タツミ」ともいう)から長女の誕生祝いに貰った千円札三、四枚で支弁したとか、貴島智(キジマサトシ)から借りた八千円で支払ったとか、甲斐と再会した折、同人がボストンバッグを提げており、同じボストンバッグを前出赤松信美に同行した八木某が持っていたとか主張して、積極的に自白を否定するに至った。そこで、同検事は、被告人の主張に係る事柄の全て(主として被告人が主張する人物の存在)について捜査を遂げ、主張の人脈をたどるも被告人のいう甲斐、桜井、貴島、「タツミ」を知る者は皆無で同人らの実在が疑われたため、同年一二月一六日被告人の最終的な取調を行った。その取調中に、被告人は母が面会に訪れたため、調べを中断して同女と面会したところ、この後においてその態度が変り、物言いたげな様子で母が日雇いをしており、当日もらったボーナスを見せて正直にならなければと諭し励ましてくれたことやその行く末や自己の将来のことなどを繰り返し語り、取調を打ち切ろうとする同検察官を引き止め、夕食も断り、長時間逡巡した末、同日午後一一時近くなって本件が自己の単独犯行である旨述べ出し、以降はよどみなくも語りかけるような調子で本件犯行の全般について自白するに至った。その内容は、「はじめ空巣のつもりで行ったところ、おばさんが居たのでアパートを借りるような話をして一旦おばさんと別れて歩き出した。そのうち、アパートの二階に上る階段の下にあった六分くらいの鉄筋(長さ三〇センチくらい)に気付き、これでおばさんの首筋を殴り、刀で峰打ちをくらわせたようにしてお金を盗ろうと考え、その鉄筋を持っていた傘の中に隠してもう一度アパートに行っておばさんといろいろ話をし、おばさんが背向けた隙に鉄筋の入った傘でその後頭部を殴った、その後おばさんが起き上ろうとしたり、人の来るのが見えたりしたので、このままでは自分が終りになると考え、炊事場のまな板の上にあったステンレス製包丁でおばさんの首を刺した、血がものすごく出たのでこわくなって押入れから布団や毛布を持って来て頭の方にたくさん掛かるようにしておばさんの上に置き、血が見えないようにした、履いていた半長靴の底に血が付きそれが畳に付いたようだった、タンスの抽斗から着物を出し、それを便所に押込んで出て来る時にこの前から話しているボストンバッグが背伸びしてやっと届くところにあるのを見付けたので、それを取って六分鉄筋を入れたままの傘や首を刺すのに使った包丁を入れた、部屋を出るとき鍵を閉めて出ようと思い、探して財布の中に見付けた、財布にあったお金も盗んだ、通帳にはさんであった一万円札一枚も盗った、一万五、〇〇〇円余であった、ドアに鍵を差し込み錠を落さないまま現場から逃げた、鴨池球場のグランドに来て煙草屋の便所に六分鉄筋入り傘を投げ込み、鴨池補助グランドの公衆便所の便槽に包丁が入ったままのボストンバッグを投げ込んで捨てた、新村から借りた雨靴は、血がついていたので買い替えて、松見質屋の少し先の橋まで行き片方ずつ川の中に捨てた、その晩から翌日にかけて買物をした状況はこれまで述べたとおりである、便所に捨てた傘と包丁については警察で見せられた物に間違いない」というものである。
(三) 供述の任意性と信用性
被告人は、同人の捜査段階における各自白は、全て捜査官による拷問、強制、誘導によるものであるというのであるが、前示するとおりの被告人に対する取調の実状、自白に至る経過とその状況に照らせば、その任意性を疑わしめる事情はなんら存在しない(添付の図面についてもとやかく批判すべき点はない)。時には取調が長時間にわたり、あるいは深夜に及んだりしたとしても、本件事案の重大性や捜査における時間的制約上無理からぬものがあり、ましてそれが被告人みずから希望したところであるならばなおのことこれをもって違法とはいえず、また、その供述が変る度毎に、従前の供述との矛盾を厳しく追求されることは当然のことであり、それらのことがあったからといって自白が拷問、脅迫、誘導によるとまではいえない。
この点に関する被告人の供述(当審のをふくむ)、すなわち、警察官浜ノ上仁之助らが被告人に対し、連日、早朝から深夜まで両手錠のまま取り調べ、食事時に食事もさせず、その意にかなう自白をしぶると、両手錠のまま座敷を引きずり廻したり、ピストルで脅迫して自白を迫り、被告人が耐えかねてした虚偽の自白を基にして以後の全ての供述調書が作成された旨の供述は、前示各証拠に照し信用できない。(ちなみに、浜ノ上仁之助は、第一次取調段階で新川豊警部補の下で同警部補が録取した被告人の供述の裏付捜査に当っていたもので、被告人の取調は、専ら右新川の担当であった、被告人の同人に対する供述調書は、右捜査期の最終のころのもの(前示昭和四一年五月一九日付)が提出されているにすぎない、また、二人の検察官のいずれもが、被告人が述べもしないのに警察官作成の調書を引き写してその自白調書を作成するなどいうことは右検察官両名の証言に照らし考えられないことである)
そして、供述調書の内容は具体的かつ詳細であり、経験したものでなければいえないほどに如実的であって実感にあふれており、基本的事実関係においては各捜査段階を通じて一貫しているといい得るのであって、変化する供述部分についてもなぜ変化したかの合理的な説明がつくことも後述のとおりであり、これに右の供述の経過、供述態度をふくむ供述時の状況等を併せ考えるとともに、被告人が被害者との間借りの交渉により、あるいは新聞報道や被疑者としての取調を通じて、容易に本件に関する予備知識を得られる立場にあったことを考慮に入れてもなお、被告人の自白の内容は、それらに因って得べかりし事実に止まらず被告人が犯人でないとしたならば到底説明のつかない事実、換言すれば、本件犯行を犯したが故に供述し得たとしか考えようのない事実を述べていることに照せば、その自白は、大筋において自己の体験した事件の真相を述べたものとして信用できる。
以下、その内容について若干詳細に検討を加えてみる。
1 第一兇器に関する供述
被告人は、一貫してステンレス製包丁のほかに第一兇器の存在することを述べながら、それが何であるのか終始供述の変遷を繰り返し、「瓦切りハンマーないしケレンハンマー」がそれであるとはついに供述していない。しかし、本件発生直後の昭和四〇年六月四日中荒田公園公衆便所より発見領置された瓦切りハンマー(当審押収番号第三号の17)が被害者の受傷中頭部、顔面等に存する創傷の成傷器たり得ることは後述のとおりであるところ、被告人は、右「瓦切りハンマー」を、当時その正式名称を知らずにわかりにくい表現をしたか、あるいは被告人において、右瓦切りハンマーの発見領置の事実を知っていて、みずからの責任を軽減ぜんがため、うその供述を続けたと考えられる余地がある。そして、被告人は、後者の理由から第一兇器について種々のうその供述を続けたことが看取される。
すなわち、本件瓦切りハンマーは、犯人不明のまま捜査官による現場付近の徹底的な捜索の結果発見領置したもので、これが兇器と断定し得ない状況下であったが領置後直ちに現場付近の左官などを中心に右瓦切りハンマーの写真を示してその所有者の発見に努めそのときは発見するに至らなかったものであるところ、被告人は、同年五月二八日から左官職駒走章の下で見習いとして働き始め、そのころ捜査官が右写真をもって右駒走らの作業現場を訪ねその所有者ないし所持者の聞き込み捜査をしているのに遭遇している(被告人は、昭和四五年二月一八日付検察官調書において、被告人が左官の見習いとして道添アパート工事現場にいたとき、刑事がやってきて、左官や大工の棟梁たちに瓦よき((瓦切りハンマーの通称名))を写した写真を見せて、「このような品物を紛失しなかったかどうか」尋ねていた旨述べ、当審公判廷においても捜査官が工事現場に聞き込み捜査に訪れ、そのさい、右写真を見たと述べている)。したがって、被告人はすでに、この時点で、本件瓦切りハンマーが発見領置されたことを知ったものと推認される(被告人は、前示検察官調書中で、そのために自己の事件のことが気になり、不安になったと述べている)。しかも、第二次取調のころになると、捜査側に本件瓦切りハンマーこそ兇器との見解が出されたため、被告人は、本件瓦切りハンマーを避けようとする態度が顕著になり、昭和四五年二月六日、本件の第一兇器は「手斧」である旨供述し、示された瓦切りハンマーや斧の中から兇器に類似するものを指示特定しているのであるが、翌七日、鹿児島署において兇器の点の取調を進めるべく右被告人の指示にかかる斧などのほかに誤って本件瓦切りハンマーをも並べたところ、被告人は少し慌てた様子で、右瓦切りハンマーを手に取り「これは昨日自分が似ているといったハンマーとは違う」といって机の端の方に押しやったことがあったり(同月九日付司法警察員作成の捜査報告書)、また被告人が内宮光一検事の取調において犯行をを自供した後、第一兇器の図面を作図し、それに類似するハンマー三、四本の中に本件瓦切りハンマーを入れて兇器に最も近いものの指示を求められるとそのうち一本を選別し、同検事が念のため本件瓦切りハンマーを示して「これに近いんじゃないか」と反問したのに対して、「これは便所から出たハンマーでしょう、これは事件と何の関係もありませんよ。このハンマーでは被害者の傷と合わないはずですよ。」と応答した(証人内宮光一の原審の供述)りしている。そして、その後の第三次捜査では、右瓦切りハンマーが本件成傷器か否かの鑑定中(鑑定人牧角三郎)と聞知するや、その結果に強い関心を示し、当時、犯行を全面的に否定し、すでにした自白の内容は甲斐勝博、桜井竜美から聞き知ったことと弁解していたにもかかわらず、取調に当る藤井俊雄検事に対し、熱心に鑑定結果を尋ね、最終的自供においても第一兇器は現場にたまたまあったものであったと強調し述べていることが注目されるのである。
そして、この第一兇器に関する一連の供述は、兇器の大きさ、形状の細部に差異がある反面、「鉄」をふくんだあるいは「鉄の部分」を有し、柄ないしは棒状の部分があって、手で握り振り下し易い形状のものであるとする点では一貫しており、最初に単独犯行を自供した昭和四一年二月一〇日の供述の「柄の長さ五〇センチくらいで先に巾七センチくらいの平たい、先が薄くなった鉄がついた道具」いうのは、その鉄に関する供述部分は瓦切りハンマーの形態の供述といえなくもないし、その他手斧とか金槌とかいう供述も瓦切りハンマーと重要部分の一致があることも看過できない。
結局、この点に関する被告人の供述は、第一兇器があることと、それが前示の如く本件瓦切りハンマーと類似性を持つものであるとする点においては信用性があるといえよう。
2 第二兇器、すなわち、ステンレス製包丁に関する供述
本件犯行の第二兇器たる包丁は、犯行時被害者方に存在し、被告人が犯行後これを持ち出して鴨池補助グランドの国道沿いの公衆便所に投棄したことは後に詳述するとおりであるから、その存在位置に関する被告人の供述が曖昧であるとしても、そのことは、その供述部分のみの信憑性の問題であって、被告人の他の基本的重要部分に関する供述の信憑性にまで影響を及ぼすものではない。
本件犯行時刻は、午後二時過ぎで昼食時間帯をずれていたことや、犯行現場の実況見分の結果からすれば、本件包丁がまな板の上にあったとする被告人の供述は信憑性に乏しいし、右供述は、昭和四五年一月三〇日以降のものでありながら昭和四一年二月当時の供述よりかえって具体性を帯びている点からしてもこの点に関する限り信用性に欠ける。しかし、昭和四一年二月における被告人の供述は、「流し」「調理台」「水道のそば」となっており、いずれも「流しのところにあった」とする供述と理解できる。被害者所有のもう一本の野菜包丁は、炊事場下の棚の奥に新聞紙に包んだまま置かれていたことが明らかであるから、被害者は、日常の理調用としては本件包丁のみを使用していたことは疑いなく、常時使用する包丁が流し台の上に置かれていても不自然ではない。被告人の供述するところは、被害者が「あんたわあうらむう」と呻いて上半身を起したので第一兇器で頭部、顔面を滅多打ちにした後、さらに本件包丁で止めを刺したというのであるから、いわば咄嗟に目についた包丁を手にして犯行に及んだというものであって、その置かれた場所を正確に記憶しないとしても異とするにあたらない。
3 犯行態様に関する供述
この点に関する被告人の供述は、まず第一兇器により後向きになった被害者の後頭部に第一撃を加えたところ、同女は階段側の方に向って倒れたと述べる点では一貫しており、捜査の全段階を通じ、第一兇器により被害者の後頭部を強打して同女をその場に転倒させたが、同女が呻きながら起き上がろうとしたので犯行の露見をおそれて同女の殺害を決意し、右第一兇器で同女の頭部、顔面等を滅多打ちしさらにその左頸部を第二兇器たる包丁で突き刺したという趣旨の供述に終始している。そして、この点の供述は、牧角鑑定に示された被害者の創傷の形成時期すなわち打撃方法や順序とも矛盾がなく、むしろこれに沿うものといえる。すなわち、牧角鑑定は、「頭部においては、最初に頭頂部左半の⑨創が形成され(頭骨にからへと連なる亀裂骨折を生じ)、次に⑧の島状皮片付近や⑦の創が形成され(頭骨には⑳次いでの亀裂骨折を生じ)、次に創⑫付近や⑭などが形成され」たと推測され、右頭頂部などの創と前頭部や鼻根部の創のいずれが先に生じたものかについては、「判別根拠となる資料に乏しいが、骨折の有無や生成順序、打撲の強さなどからみると、頭頂部左半の⑨創付近に最初の強打が加えられたとみるのが妥当と思われる」、そして「頭頂部や後頭部の創は立っているときか俯けのときでないと形成されない」し「前頭部や鼻の創は立っているときか仰向けのときでないと形成されない」から、いずれについても「そのような創を受け得る体位にあった時期がある筈である」というのである。そして、前示のとおり被告人は、被害者が「あんたわあうらむう」などと呻いて起き上ろうとしたので第一兇器により頭部、顔面等を滅多打ちにしたというのであり、昭和四一年二月一〇日付供述調書がわずかに明瞭さを欠くのを除き、その後の供述は、被害者が顔を上げ被告人の方を向いたとする点では一貫しているのであって、そこに減多打ちの攻撃を加えたというのが被告人の供述である。従って、被害者が上半身を起こし顔を上げ被告人の方を向いたという体位の時期があったことになる。頭頂部の創は被害者が俯けのときにも形成されうるところ、被害者がうつ伏せの状態から両手を突っ張って起き上がろうとした場合に「俯け」の姿勢をとったであろうことも十分あり得るところである。同鑑定が、前頭部や鼻の創は「立っているときか、仰向けのときでないと形成されない」というのも、被害者が「上半身を起こし、顔を上げ被告人の方を向いている体位のときの形成可能性」までを否定するものではない。
4 動機に関する供述
犯行の動機についての被告人の供述は、要約すれば、妻の出産時の借金の返済、生活費などに困り、亡父の遺産で現に住居として使用していた土地・建物を売却するなどしていたが、月賦代金の支払いに迫られていたほか、丸浪商事から買った背広代の頭金五、〇〇〇円の支払を早急にしなければならなかったうえ、本件前夜である五月二五日夜、妻と義母が被告人が働かず毎日ぶらぶらしているのに背広を買ったということ等から口論するようになり、それが原因で被告人と妻の間でも口論をはじめ、被告人夫婦は義母方に帰らず付近の失対小屋で野宿する破目となり、翌二六日に急に「友花荘」へ引越すことにした。同年五月五日に前示家屋を失火で焼いてしまい、義母方に同居させて貰っていたのであるが、転居するとなれば炊事道具や敷金等入居に伴う費用が要り、被告人はこれといって費用捻出のあてはなく、所持金もほとんどなかった、そこで、被告人は前に松本アパートに入居申込に行って、管理人の松本みと子が一人暮しで、最近アパート経営を始めたばかりであることに思い至り、同女方に押し入って金品を強奪しようと決意した(空巣を働くつもりであったともいうが、右は、前示第一兇器とも関連し、犯行が偶発的であったとする点において、自己の責任の軽減を意識したものとして措信できない)というのであって、犯行の動機の供述として右は一貫しているうえ、土地、家屋の売却取得金は小額であったこと、引越移転料の支払いに迫られていたこと、背広代金の支払に迫られていたこと、犯行日前の昭和四〇年四月一四、五日ころ、不動産業者生駒祐晴の世話で松本アパートを見に行ったことがあることなど供述を裏付ける客観的事実があり、右供述の信憑性には疑問の余地がない。
5 犯行現場に赴くまでの状況に関する供述
イ 雨靴、洋傘を借りた事実
被告人は、犯行日当日の午前中、雨の中を友人の河野明朗の加勢を得て荷物を「友花荘」へ運んだ後、実母方を出る時の服装について、「黒ズボンにグリーンのセーター、その上にカッターシャツ、卵色のトレンチコートを着て、引越の時から借りていた実母の内夫である新村三熊の半長雨靴を履き、柄に犬の頭を彫刻した男物折りたたみ式洋傘を持って出た」旨述べ、妻八代子、河野明朗の目撃した被告人の服装と一致する。
ロ タクシー利用の事実
被告人は、実母方を出てから、「皮篭石商店の公衆電話で鴨池タクシーを呼び河野とともに乗り込んだ」旨述べ、鴨池タクシーの小川正明運転手は、昭和四〇年五月二六日午後一時四三分、下荒田町二二二八番地皮篭石商店から呼び出しがあり客を「下荒田」から「上荒田」まで運んでいる。
ハ 現場階段にあった手摺りの器材
被告人は、「午後二時ころ、松本アパートに行き入るところを探そうとして裏へ廻ろうとしたとき階段の脇に鉄筋のさびどめを塗ったものが置いてあった」と供述し、右は、丸田豊吉が松本みと子から手摺りの注文を受け、五月二六日午前一〇時ころ、松本アパートに行ったが、雨がひどく降るので手摺り器材をアパート南側階段のところに置いて一旦帰り、午後四時ころ再び来て工事にかかっている事実に沿う。
ニ 河野明朗の行動について
被告人は、河野とともに前記鴨池タクシーに乗ってから後の同人との行動を「松山コンクリート前で降した」とか「電話局分室付近の不動産屋まで行って車を降り、河野に見張りを頼んだ」とか「上荒田公園で河野と別れた」とか「中荒田公園南側入口で降り、河野に見張りを頼んだ」など述べているが、河野は、「被告人の呼んでくれたタクシーに乗って入院先の東条病院まで送ってもらった」だけであり、中荒田公園に行ってもいなければ、被告人がアパートの路地に入って行くのを見てもいない。この点に関しては、一時、河野に対する取調が誘導に基いてされた面のあることを否定できないが、被告人の河野を共犯者とするが如き供述が契機となって取調官において河野を本件の有力な証拠と見てその取調にあたり、かつ被告人に迫ったためであって、その結果、被告人をして捜査はまだ核心にふれていない事実に反した部分があると心理的に余裕を持たせる結果を招来し、前記変転する供述をさせるに至ったものと推測される。
ホ 瓦切りハンマーの入手及び同ハンマーとボストンバッグの処分先について
右の点に関する供述は変転極まりない。すなわち、第一兇器の入手先について「被害者方の炊事場に(あるいは土間)立て掛けてあった」とか「以前河野と丸山鉄工所に働いていたころ河野が作ってくれたもので新聞紙にくるんで天井にあずけてあった」とか「小牧自動車修理工場部品置場から盗み出してきた」とか供述し、その処分先を「鴨池海岸で兇器をボストンバッグに入れたまゝ海に捨てた」とか「ボストンバッグとともに鹿大水産学部校舎脇の便所に捨てた」とか「鹿大農学部横内の木の根に埋めた」とかいうが、右供述は、いずれも客観性に欠け信用性がない。ただ、捜査側において、本件瓦切りハンマーを中荒田公園公衆便所から発見、領置しながらこれを兇器と気づかなかった段階である昭和四一年五月一九日の取調において、被告人は、「兇器として使用した」との供述ではないが「昭和四〇年五月二五日空巣に行くつもりで道具がほしいと思い、大学通りの新築工事現場の道具箱から柄に黒のテープを巻いてある金槌一丁を盗み松本アパートの付近まで行ったが空巣に入るのをやめてその金槌は中荒田公園の公衆便所に捨てた」旨の供述をしており、本件瓦切りハンマーが被告人の供述する中荒田公園公衆便所から発見領置され、他面第三次捜査の結果右ハンマーは、鹿児島市鴨池町二六六番地シコン社(看板業)三宅正寿方で、昭和四〇年五月下旬ころ盗まれたものであることが判明しているのであり、窃取と投棄の場所に関する供述の限りでは、客観的事実と合致すること、被告人が、第一兇器の入手先と処分先に関する供述をふくめそれについての供述の変遷を重ねたのは、被告人において、取調官がこれを兇器と気づかずにいることを察知し、また捜査側が兇器の疑いを深めた段階では、本件について予めの殺意の存在はもちろんのこと、金品強取の意思をも否定して初めは空巣のつもりと、強盗が偶発的なものと弁解したことから兇器の準備や携行の事実は否定する必要があったと推察されることに比照すれば、右の瓦切りハンマーの窃取と投棄の場所に関する供述は右の限度で信用できる。
6 犯行状況についての供述
犯行状況に関する被告人の供述の要旨はつぎのとおりであり、それぞれに裏付けの事実が存在する。すなわち、
松本みと子方の部屋のまわりを廻って様子をうかがったが、物音がしないので留守と思い入口に立ってドアをノックしたところ、意外にも同女が「どなた」といいながらドアをあけて入口外に出て来た。入居申込みを装って同女に「前にアパートを借りに来た者ですが、見せて貰ったあの部屋は空いていますか。」と話しかけた(福田道子は、犯行日の五月二六日午後二時ころ、松本アパート二階に住む福山良子方を訪ねたさい、二階に上る階段の下の水道のそばに若い男が立っているのを見ており、同女が階段を上る途中で、その若い男が管理人室に入るのを見たが、管理人のおばさんと思われる人の声で「あら何とか」という、いわば面識のある者に対して交すような言葉を聞いているし、同アパート二階五号室に住む今田和代は、福山良子方前で前示福田道子とすれ違い、管理人室の横を通りすぎようとして松本みと子が一見大学生風の男と立話をしながら、今田を認めて笑顔で頭を下げたのを目撃しており、その時のみと子と大学生風の男との様子を「男の人が松本さんに何かを尋ね、松本さんが東の方を指して、それに答えているような話し方の感じだった」というのである)ところ、松本みと子は、「すでに新婚さんが入っている。」と答え、次いで、「あなたはカワサキで働いていませんね。私は仲介人を頼んで確めてみたんですよ。」「私はうそを言う人は大嫌いです。あんたに貸す部屋はありません。」と前にうそをついて入居申込みに来たことをののしり(右供述は、単独犯行を自供した昭和四一年二月一〇日に初めてなされたもので、被告人が以前カワサキで働いているといって松本アパートに来たことがあることは、捜査官がそれまで知らなかった事柄で、その裏付け捜査を被告人が供述した不動産業者の生駒祐晴について実施した結果、同人が橋本という人に松本アパートを世話したさい、橋本がカワサキオートバイに勤めているというので松本みと子にもそう話したが、同人がカワサキオートバイに電話して聞いてみると、以前はいたが勤務成績不良で辞めさせたということであったので橋本がうそをついていることがわかって仲介はしないつもりでいたところ、橋本に仲介した部屋をその後新婚の川之上夫婦に世話し、そのさい、松本みと子が橋本が先口であると気にしている様だったので「あの男はカワサキには勤めていなかった、あんなうそをいう人はいけない」と話しておいたというのであるから、同女が被告人を「あなたはカワサキに勤めていないそうですね」などいって責めたればこそ前示被告人の供述となったもので、同女から言われなければ供述し得ないことである)、きびすを返して室内に引き返しかけたので、炊事場の板の間に上りざま、第一兇器で板の間を通り奥四畳半に行こうとしていた同女の後頭部を強打し、同女は、どしん、というにぶい音を立てて倒れた(福田道子と福山良子が二階の福山方で話し込んでいるとき、松本みと子方の方から「ドシン」という音が聞え、二人は何の音かと顔を見合せている)。にぎりの中央にあるボタンを押してドアに鍵をかけたとき、二階から、女の人が降りて来る気配がしたので、ふすまの蔭にかくれた。その人は「奥さん奥さん」と呼んでから二階に上っていった(福山良子は、松本みと子に罐切りを借りに行き「おばさん」「おばさん」と声をかけ、出入口のノブを二、三回廻したが開かなかった、戸と柱との間からのぞいたら、鍵がかかっているのを確認している)。ところが、松本みと子が呻きながら起き上ろうとするので、犯行の露見を惧れ、同女の殺害を決意し、さらに第一兇器で同女の頭部、顔面等を滅多打ちにしたうえ、同女方炊事場にあったステンレス製包丁で同女の左頸部を突き刺した(右攻撃方法が被害者の創傷、現場の状況等からみて不自然な点のないことは、前述のとおり)。その後、押し入れから毛布や布団を持ち出して、同女の上にかぶせ、窓のカーテンを閉め、ラジオのスイッチを入れて鳴らすなどしてから屋内の金品の物色にとりかかり、タンスから衣類を取り出してその間を探したり、みず屋の抽斗を探して、家賃の通帳の間にはさんであった一万円札など約一五〇〇〇ないし二〇〇〇〇円くらいの現金を見つけて盗った。タンスから取り出した衣類は便槽内に投げ込み、便所にあった塵紙をその上から落してかぶせた(現場実況見分の結果に合致する。高橋徳成は一万円札で差額は、翌月分に充当するということで五月二二、三日ころ家賃を支払っている。現金を盗った財布の色や特徴はもとより、すすんで通帳にはさんであった一万円札という点こそは犯人でなければ供述し得ない事実といわなければならない。強取金員の金種や額に関する点が一定しないのは、被告人がこれを確めながら盗ったというより、要するにあった金を手にしたというのが真相であろうから、正確にその額等を意識していないとしても不自然ではない)。便所から出たとき、洋服タンスの上にゴバン模様のボストンバッグを発見し(現場の状況からして便所側の方が目につき易い)これを盗って犯行に使用したステンレス製包丁や第一兇器を入れ、逃走に備えた。それから、みず屋の抽斗にあった鍵をもって入口外に出て、鍵を錠に差し込み錠を落そうとしたが落ちず、鍵も抜けなくなったので鍵を錠に差し込んだままにしてボストンバッグを持って同女方から逃げ出した(鍵の状況は現場の状況と一致し、ボストンバッグが現場にあったこと、これを盗って持ち出したことは犯人でなければ知り得ない事実である。さらに、この被害者方入口の鍵の点と炊事場ガスコンロに両手鍋がのせてあり、コップ一杯くらいの水が入っていた状況は、真に犯人でなければ思いつかないし、したがって説明もできにくい事実で、被告人の自供によって初めて意味づけのできた事実である)。
以上の次第で、右犯行の状況に関する被告人の供述の信用性に疑いをさしはさむ余地はないというべきである。
二 被告人の原審および当審での供述
(一) 内容
被告人は、原審以来一貫して本件公訴事実の犯行に関する部分を全面的に否認し、捜査官に対しその訴因にそう供述をしたのは、拷問されたり脅迫されたりして、公判になればわかることであると思ったからであるというが、重大な犯罪に関することであって、事実に反して軽々に自供するはずがない。
(二) 弁明
被告人は、原審第七回公判期日(昭和四七年四月六日)においては、本件当日友花荘に引越し、同日、鹿児島県薩摩郡樋脇町に住む叔母村山ナミエ方を訪問しているから、本件時刻に犯行現場に居るはずはない、被告人が犯人と疑われる原因となった阿部和雄に対する話の内容は、甲斐勝博に聞いたものである弁明したが(尤も、同期日において同時に陳述した昭和四六年四月一六日付上申書では、右甲斐勝博とあるべき事柄の主体が後藤みのるとされている)、同第一二回公判期日(同年七月二五日)においては、本件は後藤みのるの犯行である、そのことは同人から聞き知り、捜査段階では、その聞知した内容を自分の行動のように述べた、また、大城某からも、本件に関連する同人ら三名による松本アパートにおける脅喝の事実を聞かされていた、友人赤松信美が被告人方へ伴ってきた八木某がボストンバッグを携行しており、同人から鉄棒のようなシャフトを預り、さらに河野明朗に預けたことがある旨の弁明に変り、同第二八回公判期日(昭和四八年一〇月一六日)には、前示村山方訪問は、「タツミフミアキ」が同行し、同人の女友達の運転する乗用車で往復した、前示後藤みのるから聞いたという時期は、昭和四〇年一一月ころ、鹿児島警察署(当時)留置場に留置されているときである旨弁明し、同第三〇回公判期日(同年一〇月三〇日)に至り、実は後藤實から聞かされた本件の内容を、同人の名を隠すために甲斐勝博の名に置き変えて述べてきた、甲斐勝博は実在の人物で、桜井竜美といっていたのも八木某のことである旨弁明するが、当時、阿部和雄の本件に関する取調に同情したからといって、他人から聞き知った犯罪事実に関連の事実をあたかも自己の行動の如くに述べ、それを契機に嫌疑を受け、身柄拘束のうえ起訴までされているのになお、その者の氏名をすり替えてこれをかばい、秘匿するなどということは、通常人のすることとは考えられない。被告人の弁明するところは、証人後藤實、同大城栄行(いずれも原審)の供述、村山ナミエの検察官に対する供述により明確に否定されるところであり、これらの供述の信用性に疑問をさしはさむ余地はない。
第三物的証拠
一 ステンレス製包丁
(一) 被告人が昭和四一年二月一一日、ステンレス製包丁(以下、本件包丁という)を鴨池の補助グランドの国道沿いの公衆便所に捨てたと自供し、翌一二日、これが右自供の投棄場所から発見領置されたことについて。
《証拠省略》によればつぎの事実が認められる。
すなわち、新川豊(県警本部刑事部捜査一課警部補)は、昭和四一年二月一一日、被告人が前日の単独犯行の全面的自供に引き続き詳述した供述調書を締め切った後になって、被害者の首を刺した包丁を鴨池の補助グランドのそばの便所に捨てたと供述したので、被告人が前日八日に三人共犯で本件を犯したと自供したさい、兇器を城山に捨てたと供述し、被告人立ち会いのうえ、その裏付捜索をなすも、被告人が自供した場所から兇器等は発見されず、被告人もうそをついたと認めた経緯があったところから、同人は、兇器の捨て場所はそれが発見されれば、重要な証拠とはなるが、今度も又うそをいっているのではないかと思いつつ、本当かどうかを問い糺し、被告人が間違いないと言い切ったので、自分の控え帳にその旨を記載し、末尾に(S41・2・11午後6時」とその時刻を記入して右供述の信用性を保証する意味でその下に被告人の署名を求めたところ、同人が「橋本正年」と署名した(被告人において右署名をしたこと自体については争わない)。しかるところ、本件捜査本部において、被告人の前示兇器の投棄場所に関するそれまでの供述の経緯からして被告人を立ち会せる前にひとまず捜索をしてみることとなり、翌一二日自供の場所である鹿児島市営鴨池グランド敷地内の国道沿いの公衆便所の汲み取りをした結果、同便所汚物内より本件包丁を発見したので、被告人を同所に同行してその自供する投棄場所が同便所であることを指示させたうえ、現場および右包丁発見の状況などを写真撮影をしてこれを領置した。しかし、浜ノ上仁之助ら捜査官において、予め被害者の養女などから聴いて本件の兇器でかつ被害者方から持ち出された包丁は普通の大きさの野菜包丁と想定していたのに、右の発見にかかる包丁は思いのほか小さかったため、また、被告人が前記の如く兇器の捨て場についてのうその自供をしていた経過も作用して、又被告人に欺されたとの心証を持ち、右包丁は本件の兇器ではないと判断した。そのため、被告人を現場に同行したものの、右包丁を被告人に示すことも、その立会いの実況見分もしなかった。
ところが、被告人はその後の取調においても包丁を捨てたのは前示公衆便所である旨述べて変らず、さらに右包丁の発見と前後して同じく被告人自供の場所から洋傘(被告人が本件犯行場所に携行したと自供するもの、)が発見されたこともあって、やはり前示包丁は本件の兇器であるとの見方をするに至って鑑定に付されることになり改めて被告人立会の実況見分を洋傘の捨て場の実況見分をもふくめて行うこととし、同月一五日、実施されたところ、同日の分を前回一二日のものに併せて調書が作成されるに至った。
以上の本件包丁の発見領置経過の日時については、前示新川メモの日付の記載、清掃業者山口四郎の、昭和四一年二月一二日に私服の警察官立会いのうえで鴨池球技場の公衆便所の汲み取をした、同人が清掃業を始めてから「警察の人の立会い」で便所の汲み取りをしたのは四〇年六月四日の中荒田公園の公衆便所と右鴨池球技場の公衆便所の二ヶ所しかないからよく記憶している、国道二二五号線沿いの公衆便所は一つしかないが、同人が汲み取りをした鴨池球技場の便所とは、野球場と競技場との間にある国道二二五号線沿いの公衆便所にほかならない旨の供述、右包丁発見領置時の立会人で当時市営鴨池球技場管理職の鹿児島市職員であった迫末熊の、同人が立会った便所というのは、鴨池球技場と陸上競技場の間にある便所で国道二二五号線寄りに建てられた便所である旨の供述、木下清秀の警察員調書添付の鹿児島市清掃事務所保管の昭和四〇年度の作業日誌の写しならびに同藤崎一雄の警察員調書添付の同市役所衛生部庶務課保管の「し尿汲取報告票」写し、同吉永正治作成昭和四五年三月四日付捜査報告書添付鹿児島市清掃事務所借上車によるし尿処理作業日誌謄本の各日付の記載、同中野秀雄の領置調書の日付の訂正に関する供述、同上薗實の領置調書添付写真、昭和四一年二月一二日付実況見分調書添付写真、「被疑者橋本正年の強盗殺人被害事件に対する捜査報告」と題する書面添付のネガフィルムの各撮影日についての供述に照し、疑問の生じる余地はない。
(二) 本件包丁と被害者との関係について。
《証拠省略》によれば、つぎのとおりである。
すなわち、被害者松本みと子は、生前野菜包丁を二本所有していて、東京での飲食店業をやめて鹿児島へ引き揚げるさい、これを持ち帰ったのであるが、犯行直後の五月二九日の実況見分時には、同女方流し台下の戸棚の角から古新聞に包んだ野菜包丁一本は見つかったものの、同女が日常使用していたと思われる他の一本がなくなっていることが判明した。そこで捜査官は、この包丁は犯人が兇行後持ち去った可能性が強く、その発見が犯人の発見につながると考えられたので、被害者の養女で被害者と同居し飲食店を手伝っていた外園よし江になくなった包丁の形、大きさ等を図に書いて説明させ(そのさい、同女は、はっきりは憶えないから大体の図を書くとことわって作図し、長さなども「約」と表示してあいまいな点のあることを明らかにしている。本件包丁が右図面の包丁の長さや刃先の形状と相違するからといってその消極面のみを強調することは正しい態度といえない)説明の包丁と似たステンレス包丁を準備して、その発見に努めていたが、本件包丁の発見にさいし前述の判断が作用したため、直ちにこれを同女に示して確認することが遅れ、そのまま経過してしまった。しかし、昭和四四年末に至り本件関係証拠の再検討がなされて包丁の確認の未了に気付き、昭和四五年一月七日、前示発見にかかる本件包丁を同女に示してこれが被害者が生前使用していたものと同一か否かの確認を求めたところ、同女は「この包丁を見たとき母が持っていた包丁にしては心持ち小さいと思ったが手にとってみると握った感触、重さ、柄の作り、刃の長さや幅、刃先のところと刃の部分に砥石でこすったような傷あとが見えること等から、生前母や自分が使っていたものに酷似している旨述べ、さらに、「母は小さな砥石で包丁を砥いでいた、その砥石があるはず」と述べたので、被害者の遺品を引き取り保管していた甥の伊波孝を通じ、被害者の実弟松本思聴から遺品である砥石の任意提出を受けたうえ、本件包丁は右砥石により砥がれた傷があるか否か等について鑑定を求めたのである。
右鑑定の結果、本件包丁の砥ぎ跡と被害者方にあったもう一本の野菜包丁の砥ぎ跡とが同一の砥石(右松本思聴提出のもの)によって砥がれたものであることが明らかになった(右各鑑定における鑑定の方法および推論過程をふくむ鑑定結果に疑問とすべき点はない)。
加えて、右包丁が、被害者の左頸部の成傷器たりうることも疑いない。
以上、(一)、(二)の事実に徴すると、本件ステンレス製包丁は、被告人と本件犯行を直接しかも強固に結びつける証拠となることは論をまたない。
二 瓦切りハンマー
(一) 中荒田公園公衆便所から発見領置された瓦切りハンマーと公判提出にかかる押収してある瓦切りハンマー(当審昭和五一年第三号の17)の同一性について。
《証拠省略》によれば、昭和四〇年六月四日、本件犯行現場から約一〇〇メートルの地点にある鹿児島市中荒田所在中荒田公園公衆便所の便槽内から瓦切りハンマー一本と男物黒ズボン一着が発見、領置されているところ、右瓦切りハンマーと押収してある瓦切りハンマー(前示押収番号)とは同一物であることに疑いない。
すなわち、昭和四〇年六月四日(事件発生後一〇日目)、捜査員が本件現場と至近距離の中荒田公園公衆便所の便槽内のし尿の中に混って存在した瓦切りハンマー一本(前示検察庁昭和四五年領第九〇号符59)と黒ズボン一着(被告人にズボンに関する供述が全く存しないことやこれの発見時の状態、鑑定結果に照し、本件との関連性は認められない)を発見領置し、この瓦切りハンマー一本と本件犯行との関連性の有無の捜査のため、翌五日鹿児島県警察本部鑑識課に鑑定を求め送付したところ、同課において、当時、右瓦切りハンマーの柄元約四・七センチメートルの部分には黒褐色ビニールテープが一重に巻かれてあったのであるが、同日から始められた各種鑑定のための作業の過程において、指紋採取、微細物検出等のため、右黒褐色ビニールテープを取りはずしたものの、これを復元することなく元のテープの位置を示し、かつ、他の類似するハンマーと区別する趣旨で前示ビニールテープと同位置に無色透明のテープを巻いた。のみならず、右瓦切りハンマーの血痕検査、人血検査、血液型検査のためその柄尻の一部を、同ハンマーの頭(鉄の部分)に認められた付着物の分析(セメントであるか否か)、鑑定のため、同所付着物の一部をそれぞれ削り取ったのである。
そして、昭和四五年に至り、右発見領置した瓦切りハンマーは、捜査官においてその盗難被害者と覚ぼしき戸田淳一、原高像らシコン社関係の人らに示して確認を求めたさいにも(被告人は、昭和四一年五月当時、兇器として使用したことは否定しながらも、一旦は、犯行現場近くのコンクリート建物新築工事現場の道具箱の中から普通のものとは違い柄をつけたところが上の方になっている柄に黒のテープを巻いた金槌一丁を盗み、これを中荒田公園の公衆便所に捨てたことがある旨自供していた)、右原高像は、昭和四五年五月二日、同年一一月二二日鹿児島地方検察庁昭和四五年領第九〇号符59として示された右ハンマーを見て、「当時巻いてあった色ものの絶縁用ビニールテープが巻きつけられていないが」とか「柄尻がけずられているが」とかいってシコン社にあった瓦切りハンマーとの違異点を指摘すつつ、なお、その特徴からみて戸田淳一所有のものにまちがいないと供述し、また、シコン社にあった瓦切りハンマーを使用していた枇榔春男も、同じころ、右発見領置にかかる瓦切りハンマーを示されると、「柄にビニールテープが二ヶ所巻いてあるがシコン社のものは色もののビニールテープが一ヶ所このように巻いてあった」と述べてその差異を指摘しながらも、これが本件直前にシコン社から盗まれた物にまちがいないと述べている。
しかして、検察官は、原審において、右領置に係り、前示原高像らに提示した瓦切りハンマーを証拠として提出し、これが押収されている(原審押収番号昭和四六年押第六一号の17、当審昭和五一年押第三号の17)ことは一件記録上明白であり(前示検察庁領置番号第九〇号の領置報告書等とともに提出、請求されている)、捜査過程でこれが他のハンマーと取り替えられたなど特段の事情の全く窺えない本件においては、右中荒田公園公衆便所から発見領置されたものと、押収されている瓦切りハンマーとの間の同一性に疑問の生じる余地はない。
なお、右発見領置にかかる瓦切りハンマーは、前示日時、場所において前示状態にあったのを領置したのであるから、犯人が犯行直後にこれを投棄したとすれば約一〇日間し尿の中にあってかなり水分を吸引したとも考えられ、そうでないとしても前示鑑定時の計量と原審裁判所がした計量(昭和五一年一月ころ)時とでは約一〇年余の時の経過があって、目的物の木質部分の含水率の変化が予想されるうえ、測定の方法、条件にも異同があるから、その正確性を考慮する必要や前示諸検査のためその一部を削り取った事実を併せ考えれば、右両時における計量結果に差異があったとしても、これを過大視し、その同一性を否定的に考えることはできない。
(二) 瓦切りハンマーと被害者の受傷(左頸部の受傷を除く)の関連性について。
牧角三郎の鑑定書、前示矢野勇男の昭和四〇年六月一八日付「鑑定結果について」と題する書面によれば、被害者松本みと子の頭部顔面などの創傷の凶器は、「比較的小型のしかも重量の重い、部分的には角稜のある」鈍器ないし鈍体であること、ことに頭部陥没骨折巣二個については「陥没巣⑱は先端が二・二センチメートル程度の細長い突出部をもった鈍体により、陥没巣⑲は突出部の先端が四角な断面を有し、その大きさは一辺が〇・七五センチメートルかそれ以上、他の一辺は一・六センチ以下のもの」という条件を満たした兇器でなければならず、またそれらの鈍器は角稜を有し、稜線は「へ」の字型を呈しているものでなければならないところ、右発見領置にかかる本件瓦切りハンマー(資料3)の「打ち込み部分の稜の長さは二・二センチメートル峰側は正四角形で辺の大きさは最小一・五三センチメートル、最大一・五八センチメートル」であるから、とくに陥没巣⑱の長さと右ハンマーの打ち込み部分の長さとはよく符合し、陥没巣⑲は右ハンマーの峰が斜め方向に打ち込まれたとすれば生じ得るのであり、前頭部髪際の創①②は、資料3の鉄製頭部の稜角や稜縁の性状特徴とよく符合し、創③は資料3の打ち込み部分先端の一側が斜めに打ち込まれ、左下方へと移動するならば成傷可能である、また、鼻根部の④創は、資料3の打ち込み部分が下方から上後右に向けて斜めに打ちこまれれば成傷可能で、頭頂部から後頭部における挫裂創はいずれも資料3の鉄製部の稜角部分で成傷可能であり、陥没巣⑱と⑲は、その深さも異なり、その中間骨折の性状からして同時に形成されることは不可能であり、その順序は時を異にして浅い方の創⑱が出来たのち深い方の⑲が形成されたと認められ、被告人が第一兇器の類似品として特定した瓦切りハンマー(資料1)でも、また、同じく図示した手斧(資料2)でも頭蓋骨陥没骨折巣⑱と⑲を形成させることが不可能と判定されている。加えて、右瓦切りハンマーの頭や刃の全面ないし柄木の柄元に近い部分に本件被害者松本みと子の血液型(城哲男の解剖鑑定書によりA型と認められる)と同じA型らしい人血痕の付着が認められたことや、それが本件犯行現場から約一〇〇メートルの近接地点にある公園の公衆便所便槽内から発見されており、犯人が犯行に使用した後、これを同便所に投棄した可能性の強い点を併せると、右発見、領置にかかる瓦切りハンマーは、本件犯行の兇器である可能性が大であり、そのつながりを肯定できる。
(三) 本件瓦切りハンマーと被告人との関連性について。
本件ステンレス製包丁が被害者の左頸部の受傷の成傷器たり得るものであり、かつ、同包丁が被告人の自供した場所から発見領置され、しかも被告人において右包丁で被害者を突き刺した旨自供していることは前述のとおりであり、被害者の左頸部の受傷を除く頭部、顔面等の各受傷は、右包丁以外の兇器、すなわち、本件瓦切りハンマーによって形成された可能性の強いことも前述のとおりである。そして、本件犯行現場の状況、被害者の受傷の状況からすれば、その順序はとも角、これら被害者の受傷はいずれも同時刻に、かつ同一の機会に形成されたことが明白である(昭和四〇年五月三〇日実況見分調書、城哲男の解剖鑑定書、牧角三郎の鑑定書参照)。そして、被告人は、前示のとおり被告人の単独犯行であることを自白しているのであるから、右瓦切りハンマーによる兇行も被告人以外にはあり得ないといわざるを得ない。すなわち、ステンレス製包丁が被害者の左頸部の受傷の成傷器であることを肯定することにより、右瓦切りハンマーと本件犯行とのつながり、ひいては被告人と本件犯行との結びつきまでをも肯定せざるを得ない。
加えて、被告人が、本件犯行の兇器が第二兇器である包丁のほかに第一兇器が存在することを自白し、また、兇器として使用はしなかったが、本件犯行直前に工事現場から柄にビニールテープを巻いた金槌を盗んで公衆便所に捨てたことがある旨自供していることは前示のとおりであり、右の自供とこれを裏付けるシコン社での瓦切りハンマー盗難の事実(この点に関する関係者の各供述は具体的かつ明確であって十分信用できる)に照らせば、被告人と本件瓦切りハンマーとの結びつきはより明確にこれを肯定できる。なお、右瓦切りハンマーが、被告人において本件当日携行し、投棄したと述べる前示洋傘の捨て場や同包丁の捨て場所と至近・類似の場所から発見されている事実に注目される。
三 トレンチコート
トレンチコートの存在は、それのみによっては本件犯行の直接的証拠とはなり得ないにしても、これをめぐる被告人の行動ないしその自白内容と相まって本件犯行を裏付ける物的証拠となるといえる。
すなわち、《証拠省略》によれば、被告人は、昭和四一年二月一〇日、本件犯行が自己の単独犯行であるとしてこれを全面的に自供し、その旨の供述調書を作成したところ、その直後に本件トレンチコートの処分についてさらに供述し、犯行のさいトレンチコートを着ていて血が付いたので、犯行の日の翌日、友花荘で自分で洗濯した、妻にさせずに自分でしたのは犯行がばれてはまずいと思ったからである、乾かしてみたが自分で洗濯しただけでは血のあとが残るかも知れないし、又調べられればすぐわかると思ったのでもう一度クリーニングに偽名で出してみようと思った、そして左官の仕事に行くようになった最初の日に鴨池町の初めて行くクリーニング屋に「田中」という偽名で持ち込んだ、そのまま受取りに行っていないが、そのクリーニング屋は騎射場電停の少し先の信用金庫の前から騎射場公園の方に行き、公園の手前の左側にあり、その付近にはクリーニング屋は一軒しかない旨供述したので、即刻、裏付け捜査をしたところ、鹿児島市鴨池町所在クリーニング業中尾ドライこと中尾一正方に昭和四〇年五月二八日田中名義のトレンチコートが預けられその後引き取られないままになっていることが判明した、そして、これを領置して被告人や妻に確認したところ被告人のものに間違いなく、被告人がこれを受取りに行かなかったのは刑事が見張っていると思ったからということも判った。さらに前日の二七日(犯行日の翌日)正午ころ、友花荘の二階洗濯場でトレンチコートや白のワイシャツを自分で洗っている被告人を見た妻八代子が、こんなことは今までなかったことなので洗濯しようといったが被告人はききいれずに自分で洗った、八代子はこの日被告人に洗濯を頼んだことはないという裏付けも得られたのである。本件トレンチコートから血液の付着を確認できなかったのは矢野勇男の昭和五〇年三月一〇日付検察官に対する供述調書に対比すればむしろ当然のことであり、たとえ、血液の付着が確認できなくとも、かつて自分で洗濯したことのなかった被告人が妻の申し出を断って買って間もないトレンチコートを(被告人は左官の仕事で汚れたとか、失対小屋に泊った日に汚したとか弁解するが不自然で信用できない)みずから洗い、かつその翌日には初めてのクリーニング店に偽名で預けたままにしていたという事実は、「犯行のさい血がついたから」という被告人の前示供述をそのままに信用させ、被告人の本件犯行を間接的に裏付ける証拠ということができる。
四 雨靴
(一) 雨靴に関する客観的事実
《証拠省略》によれば、本件犯行現場の畳表には、血液付着の履物痕が印象されており、右履物痕は比較的新しいアサヒ印半長雨靴によるものであること、被告人の義父新村三熊が昭和四〇年二、三月ころ、鹿児島市下荒田町四九九番地みずほ通りの「島屋」履物店で新規購入した半長雨靴は、アサヒ印か世界長印のいずれかであり、新村はこれを三〇日くらいしか履いておらず本件当時新品同様であったこと(新村は捜査官を右「しまや」に案内し、「しまや」の女主人中島キヨは捜査官と同行した右新村を見て、同人に雨靴を売ったことを供述するに至ったもので、両名の供述は信用できる)、しかし、新村が提出し、押収してある半長雨靴一足は、月星印のものであること、本件犯行日の五月二六日午後、同市納屋通り「はじまや」履物店こと羽嶋信男方において、月星印半長雨靴が販売されていること(後記被告人の雨靴に関する供述を裏付ける事実として意味を持つ)が挙げられる。
(二) 雨靴についての被告人の供述
被告人は、原審第二回公判までは、犯行日に新村三熊の雨靴を借りて履いていたことを認め(原審第七回公判期日において新村の雨靴は、午前中に引越しを終えた段階で母ハルエに催促されて返し、みどり色はな緒のぞうりに履き替えた旨主張するに至った)、捜査段階では、一時、妻の白色のゴム雨靴(昭和四一年二月八日付司法警察官調書)、前示第七回公判期日と同旨のぞうりの履き替え(昭和四一年三月一二日付検察官宛上申書)等を述べたものの、結局、新村のまだ新しいゴム半長靴を借りて犯行現場へ行き犯行後鹿大水産学部前に来たとき、雨靴の内側に血がついているのに気付き、洗っても落ちないから新品を買い替えて戻した方がよいと考え、ハイヤーで納屋通りまで行って雨靴を買い新品と履き替えた、それまで履いていた雨靴は帰宅途中、下荒田町の松見屋質屋から与次郎ケ浜の方に来た橋の下の川下にある暗渠に捨てた(捨て場を所々述べたが挙げた場所からは発見されず、結局前述の場所に捨てた旨述べるに至った)、新村には自分が買った新品を返したと供述している(その内容については場所関係、犯行の重大性やこれを犯した者の心理等に照して検討すれば、疑問視すべき点はない)。
以上(一)の客観的事実と、(二)の供述内容とを関連させて考察すると、被告人は、新村から同人が「島屋」で買ったアサヒ印半長靴を借りてこれを履いて犯行に及び、犯行後「はじまや」履物店で月星印半長雨靴を買い替えてこれを新村に返し、この雨靴が新村から提出され、領置されたものであることが肯認される。そうとすれば、本件押収にかかる雨靴と被告人の結びつきひいては犯行現場の履物痕と被告人との結びつきが明らかとなり、押収にかかる雨靴が新村が購入したアサヒ印か世界長印と異る月星印である事実は、本件に関し特別の意味を持ち、間接的証拠となる。
第四情況証拠
一 被告人は犯行時金銭に窮しており、犯行直後に不相応な金銭を支出している事実。
《証拠省略》によれば、つぎの事実が認められる。すなわち、
(一) 被告人は、昭和四〇年二月、長女が生れたが同月二五日ころから職にも就かず、同年四月初めころ、亡父の遺産で現に住居として使用中の土地(一二坪)、家屋一棟を池田節夫に代金三〇万円で売り渡したが、これを原口ハナエに三五万円で二重に売り渡し、それぞれ手付金あるいは内金名下に金銭を受け取り生活費等に費消していたところ、さらにこれを永吉不動産に四四万円で(もっとも、右家屋が焼失したため、後に四二万円に減額された)三重に売り渡したため、池田、原口から右金員の返還を迫られており、右不動産から四月二二日に手付金一〇万円を、同月末に内金一五万円を、五月一二日に残金一七万円をそれぞれ受領したものの、右一五万円は前示池田の手付金返還に、右残代金一七万円のうち一〇万円は原口に対する返還金に当て、ほかに登記手数料一万円、永吉不動産に対する手数料二万円、姉二人への各五〇〇〇円宛の遺産分配金をこれで支払い、永吉不動産からの手付金一〇万円は、受領当時借金の弁済や生活費に費消してしまったので、結局、土地家屋の売却で手許に残ったのは三万円にすぎず、これも間もなく使ってしまい、五月二五日ころには長女のミルク代にも窮する状態であった(被告人は、原審第七回公判期日に陳述した上申書において、本件の前日である五月二五日に妻に二〇〇円を貰い河野と映画をみたが、妻からはミルク代もないのにと小言をいわれたと述べて当時金に窮していたことを自認している)。
(二) その後同月二四日、丸浪商事から月賦で背広上下を買ったが、二五日にはその上着を一、二〇〇円で入質し、支払を延期して貰っていた頭金五、〇〇〇円が支払えないまま、結局翌二六日解約され、右背広ズボンのクリーニング代五〇〇円を負担する破目になり、また右背広の購入などが原因で、同居していた義母島名シオとの仲が悪くなり、同二六日午前中に急きょ友花荘に引越すことになったが、入居と同時に支払う必要のあった敷金九、〇〇〇円(家賃二ヶ月分)の調達に迫られた。
(三) ところが被告人は、友花荘に引越した五月二六日夕方、前日質入れしたばかりの背広上着を一、二九六円で受出して右のズボン洗濯代と共に前示丸浪商事に返却しているほか、炊事道具、螢光灯、マッチなどを購入して三、六七五円を、翌二七日には米代として二、一四〇円、プロパン器具代一、五〇〇円、アパート敷金の半分四、五〇〇円、月賦代一、〇〇〇円、質受金五、〇七六円などを支払い、総計二万三五七円を現金払いしている。
以上の事実によれば、被告人には昭和四〇年五月二六日当時差し迫った金員の入用があって、それを何らかの方法で調達したということができる。
ところで被告人は、右金員の調達に関して、樋脇町の叔母村山ナミエから母が貸してあった一万円を返してもらい(これを右ナミエ方に同人の女友達とともに同行した「タツミフミアキ」に預けて一万五千円にして貰ったともいう)、これと鹿児島保護観察所松山観察官に借りた一、〇〇〇円、右タツミから貰った祝金三、四、〇〇〇円をもって当てたとか、五月二七日火災見舞金を貰ったのを向けたとか、母ハルエから一万円を借りたとか弁解するが、《証拠省略》に照し措信できない。
なお、原判決は、被告人の現場より持ち出した金額の供述が不明確であり、現場になお多額の現金が残存していたことから、被告人の金銭の必要性そのものに疑問が残るとするが、被告人が現場において金銭を手にしたさいの状況は、すでに述べた如く抽斗など現金の収納されてありそうな場所を探し、見つけたところを確認するほどの余裕もなく手にしたものであり、また本件現場にあったこの外の金銭は、他には見つけにくい状態で分散収納されていた(昭和四〇年五月三〇日付実況見分調書参照)のであるから、被害者の死体を被う布団を取り出すべく押入れを開けた犯人が、同所に右の状態で収納してある現金に気付かなかったとしても不自然ではないし、被告人が被害者の殺害を決意したのは、被告人の一撃で倒れた被害者が起き上ったため犯行の露見をおそれたからにほかならない(被告人の捜査官に対する各供述調書参照)のであって、被告人の金策の必要性と本件犯行の状況との間に問題とすべき疑問点はない。
二 被告人が当時一部捜査官しか知られていなかった本件現場からボストンバッグが持ち出されている事実を同房者に話しかけている事実。
被告人が同房者阿部和雄に対してボストンバッグの話をした経緯とその内容は既に述べたとおり(前示第二の一、被告人の捜査官に対する供述の任意性と信用性の(二)参照)である。
そして、これに《証拠省略》を併せれば、本件特捜本部は、事件発覚後、被害者の身辺調査を開始し、伊波孝からも昭和四〇年六月四日当時警視庁を通じて事情を聴取しており、そのさい、同人から同人所有のボストンバッグを被害者方に置いたままであることを聞き、同本部においては右ボストンバッグが盗まれている疑いがあることを感知し、伊波孝の来鹿を求めて昭和四〇年六月二三日、松本みと子方現場で右ボストンバッグの有無の確認をしたところ、同人はその時探してみても、見あたらないことを確認してその旨述べたのである。しかし、捜査側は、伊波孝が、洋服ダンスの上に置いたままで沖縄に帰り上京時もそのままにして置いたとはいうものの、犯行時に確実に存在したかどうかは定かではないし、もしこれが出た場合には、本件の決め手ともいうべき重要証拠になるので敢えてその公表を避けていたところ、被告人において、みずから進んで同房者の阿部和雄に対してボストンバッグのことをいい出し、かつ、それが洋服タンスの上にあったと供述したのである。そして、被告人は後に、ボストンバッグを提げて逃げる自分の姿を他人に見立てて阿部に話したとまで述べている(被告人の昭和四一年二月一一日付供述調書)のであって、前掲阿部和雄の司法警察員に対する供述は、同人の当時の状況、供述に至る心理等に対比しても不自然、不合理な点はない。
三 被告人が面会に来た妻に対し、自己が本件と関係があると告白した事実。
《証拠省略》によれば、被告人は昭和四一年三月三日午後二時ころ、鹿児島刑務所において、この日の妻との面会に行く途中、看守に自分が本件の犯人であり、そのことを妻に話そうとしていることをうち明け、妻に対して、家族の安否を尋ねた後、「八代子にも後でわかることだが実はお前が驚くことがある」「千鶴を頼むからね」となぞめいたいい方をして同看守にはっきり話したらどうかとうながされて、上荒田のアパートのおばさん殺し事件に自分も関係している、事件は三人でやった、友達から話をもちかけられて一緒にやったが、自分は直接手を下していない、しかし、死刑か無期か又は何十年の刑になるかは裁判を受けてみないとわからないが、お前もよい縁談があったら自分にかまわないで再婚してくれ、三人でやったけれども、そのうち一人は近所の者で逃げているなどと告白したことが認められる。前述のとおり当時被告人は本件被疑事件で取調を受け、二月一〇日に自己の単独犯行を自供し、二月一一日、一二日、一五日、二六日とこれに沿って詳しい自供をしていたのであるから、被告人のこのような言動は、真犯人がこれを認めたことの結果として、自分の妻子の将来を思い、その思いやりからの告白と十分理解できる。
四 犯行時間帯に被害者宅を訪問した人物が被告人に酷似している事実。
前掲福田道子、同今田和代、同福留成子の司法警察員に対する各供述書によれば、福田道子は本件当日の午後二時ころ、松本アパートの二階に上る階段のそばに若い男が立っているのを見ており、その男は「年令二〇才前後の、白ワイシャツに黒色様ズボンを着た男」であり、同じころ今田和代は松本みと子方で同女と立話をしている一見大学生風の男を目撃し、その男は「年令二〇才前後の人で頭髪は伸びていたようであり、服装は上は白のカッターシャツのようなもので袖を半分まくり上げており、下は黒の学生ズボンの様なものを着ていた」のであり、隣家の福留成子も同じころ付近の今井テル方便所汲取口付近にいる「上は白の開襟シャツと思われる半袖ようのものを着て下は黒ズボンを着て、頭は伸ばしているが型などははっきりしない」男を見ているのであって、これらを総合すれば、犯行時間帯に被害者方を訪れた人物は、二〇才前後の若い白いシャツに黒ズボンの男であることが明らかである。一方、被告人は、捜査段階において、本件当日、黒のズボンにグリーンのセーター、その上にカッターシャツ、卵色のトレンチコートを着て現場へ赴いた旨述べ、妻八代子、河野明朗もこれに添う供述をしていることは前記のとおりである(第二の一被告人の捜査官に対する供述の任意性と信用性(三)の5)。前示福田ら目撃者の各供述は、証人塩満輝雄の供述と矛盾するものではなく、したがって、同女ら目撃者は、犯行現場近くにいるトレンチコートを脱いだ被告人を目撃したものであることが推認される。
五 被告人の主張するアリバイが虚言である事実。
被告人は、河野明朗に手伝ってもらい、引越荷物を友花荘に運び込んだ後、近くの皮篭石商店の電話でタクシーを呼び、右河野とともに東条病院まで行き、同人を病院まで送ったことは前記のとおり(第二の一、(三)の5参照)であるところ、《証拠省略》によれば、被告人は、河野明朗を東条病院で下車させた後、乗って来たタクシーをバックさせて下荒田交番の方へ引き返していき、その時刻は午後一時から二時までの間であり、被告人は、同日午後四時ころ、母橋本ハルエ方に帰って来たものと認められる。そして、東条病院を出てから母方に戻るまでの被告人の行動は客観的には不明である。しかるに、被告人は、右時間帯に樋脇町の村山ナミエ方に母が貸していた金を取りに「タツミフミアキ」と名乗る男とその女友達を同行して行ったと主張するところ、これが虚言であることは前記のとおり(第四の一参照)であり、被告人は当時村山方へ行っておらず、母ハルエは同女に金を貸してもおらず、「タツミフミアキ」なる人物は実在しないのである。右事実は、被告人が本件の犯人であることを間接的に物語るものといえる。
第五結語
原審で取調べられた被告人の捜査官に対する各供述調書(措信できない部分を除く)に他の関係証拠を総合すれば、被告人による松本みと子殺害と強盗の訴因を十分認めることができる。なお、本件においては、例えばボストンバッグが未だ発見されていないなど一部に細部にわたっては解明されていない事実が存在することも否定できないが、解明されない事実の存在が被告人が犯人であることに合理的な疑いをさしはさむ事実とはならない。したがって、これに反する原判決は、事実を誤認したものであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。論旨は理由があるので、原判決は破棄を免れない。
第六破棄・自判
そこで、刑訴法三九七条、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書にしたがいさらにつぎのとおり判決する。
(罪となるべき事実)
被告人は、昭和四〇年五月五日ころから鹿児島市下荒田町二、二二六番地の義母島名シオ方に妻子とともに同居させてもらっていたが、義母との折合いが悪くなって、同月二六日午前中に同町二、二二八番地「友花荘アパート」に引越すに至ったため、早急にアパート入居に伴う敷金の支払いや、炊事道具購入等の金策に迫られ、さきに部屋借りの申込みに赴いたことのある、同市上荒田町二、〇五七番地の五松本アパート階下一号室居住の経営者松本みと子(当時六五才)が、一人暮しなのに思いいたり、同女方に押し入って金品を強奪しようと企て、同日午後二時すぎころ、右松本みと子方を訪れ、同女にアパート入居申込みを装って話しかけ、隙に乗じいきなり所携の瓦切りハンマーで、同女の後頭部を強打して同女をその場に転倒させ、その抵抗を抑圧して金品の強取にとりかかろうとしたところ、同女がうめきながら起きあがろうとしたので犯行の露見をおそれて、同女の殺害を決意し、右ハンマーで同女の頭部、顔面等を滅多打ちし、さらにその左頸部を同女方にあったステンレス製包丁で二回突き刺すなどして同女を頭蓋骨々折、頭蓋底骨々折ならびに脳挫傷により、即死させて殺害し、次いで屋内にあった同女所有に係る現金約二万円および伊波孝所有に係るボストンバッグ一個(時価五〇〇円相当)を強取したものである。
(証拠の標目)《省略》
(確定裁判)
被告人は
(一) 昭和四〇年一二月二五日鹿児島地方裁判所で窃盗、詐欺罪で懲役二年に処せられ、右裁判は昭和四一年一月九日確定し
(二) 昭和四五年四月三日鹿児島地方裁判所で窃盗、詐欺罪で懲役一年四月に処せられ、右裁判は同月一八日確定した
ものであって、右の各事実は前科調書によって認める。
(法令の適用)
罰条
刑法二四〇条後段(無期懲役選択)
併合罪の処理
刑法四五条後段、五〇条
酌量減軽
刑法七一条、六八条二号
未決勾留日数の算入
刑法二一条
訴訟費用の負担
刑訴法一八一条一項本文
(量刑の事情)
本件は、被告人が強盗の意思をもって、兇器の瓦切りハンマーを準備・携行して、アパート経営で静かな余生を送ろうとしていたひとり暮しの老女松本みと子方に部屋借りを装って押し入り、同女を右ハンマーで一撃してその抵抗を抑圧して金品の強取にとりかかったところ、被害者がうめいて起き上がろうとするのを犯行の露見をおそれて滅多打ちにし、さらに包丁で止めを刺して殺害し、金品を強取したという事案である。動機は、引越費用などの金欲しさにあり、定職に就かず義母方に妻子ともども同居して遊び暮し、支払いのあてもない品物を月賦で購入するなど、無為無策の生活態度が背景にあった。犯行の手段・方法は計画性を帯び、強盗のやり方、殺害の仕方、事後の措置など残忍、かつ冷酷、大胆不敵というほかない。被告人には、兇器など犯行に関係のある物品を分散して処分したり他人の名を挙げてこれに責任を転嫁するなどして自悔の情が窺われない。これらに徴すれば、被告人の刑責は極めて重大である。しかしながら、当時二一才の若年であったこと、前の妻と離婚し、再婚した妻と乳児一名が残されていること等被告人に有利な諸点をしん酌すれば、主文の量刑を相当とする。
そこで、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 徳松巖 裁判官 松信尚章 井野場明子)